「主は生きておられる」  01.10.21   列王記上17:1〜16、黙示録22:20

 「主は生きておられる。」私たちは、この信仰に立ち続けています。
その主に養われ、励まされ、力を得て生きます。

 エリヤは、当時の王に旱魃の預言をしました。それは、神を神としない王に対する災いであり、
王批判でもありました。それによってエリヤは命の危険にさらされ身を隠すことになります。

 「主は生きておられる」、これを信じきる者は、真実を見抜き、真実を貫く勇気を与えられます。
これを見失っているときには正しい判断も失い、簡単に誤りに進んでしまいます。 その時の
エリヤのような、大きな相手に対するときに限りません。家庭で、職場で、町を歩いている時に
「主は生きておられる」ことを確認する時に、神の民としてのふさわしさに目を開かれることは多いのです。

 このことによって、時には厳しく、また損に思えるところに身をおかなくてはならないこともあります。
エリヤもそうでした。しかし彼が、カラスや貧しいやもめに養われたように、不思議な御業で養われます。
「主は生きておられる」、と信じ生きる時に、必ず不思議な養いを味わいます。
 そして、養われていることに対する感謝と賛美が生まれます。

 勇気あるエリヤも、本当に弱りきってしまうこともありました(19章)。身も心もずたずたになっています。
主は生きておられる。しかし自分はもうだめだと感じています。そんなエリヤに主はおっしゃいました。
「神ご自身が行う」と。

 主が生きておられることを信じる者は、絶望を感じなくなるのではありません。なお自分の弱さを抱えて
いるからです。
自分の行いは限界を持ちます。しかしそれでも、なにがあっても妨げられることのない
神の行いに対する希望に生き続けられます。


 ヨハネ黙示録の時代の教会には、信仰ゆえの厳しい迫害がありました。
そこでなお信仰者を生かしたのは、
「わたしはすぐに来る」とおっしゃる主に対する希望でした。わたしたちにも同じ希望があります。